ご挨拶
皆様、はじめまして。
大原接骨院院長の大原です。
以前はテニス選手をしておりましたが、国際大会に出場していたといってもトレーナーがいたというわけでもなく怪我をしたままプレーしてフォームを崩したりしました。
その時に身体のバランスや健康であることの大切さ、それを維持することの難しさを実感しました。
整形外科などで修行した経験と全日本・国際大会でトレーナーを務めた経験を生かし、患者さんが一人で抱える痛みや不調に共に向かい安心して笑顔で暮らせる毎日のお手伝いが出来たらと思っています。
「ここに来て良かったな」「ここに来ると元気になれる」そう思って頂けるような場所でありたいと思っています。
エキシビジョン大会 レセプションパーティーにて ビョン・ボルグ氏と
。
。
。
。
。
大原昌之の半生とある日の独り言
幼少期は野球少年であった。
また夏季は水泳(ブレス)学校代表選手でもあった。
父は京都大学で野球をやっていたのだが
社会人になりテニスを覚え夢中になり
私と一緒にやりたいので強引に私からバットとグローブを取り上げ
小学6年生の夏休みからテニススクールに通わされることとなり
同時にスパルタが始まる。
野球を通しての今までの子供通しの付き合いがなくなり
当時 マイナースポーツである硬式テニスなんて
同じ学校では誰もやっておらず 嫌で嫌でしょうがなかった。
そして父との練習ではいつも怒られてばかり、
練習後は家までのランニングや学校に行く前に毎朝のランニングなど
苦痛でしょうがなかった。
しかしきつい練習の成果なのか?
中学2年生時には今までは歯がたたないのではと思っていた
伊原木 隆太君(現 岡山県知事)に勝利し
地方大会を勝ちあがり全国大会へ出れるようになった事もあり
少しずつテニスを好きになっていったようだ。
中学3年生の全国中学生大会ベスト4でシングルスでは
松岡 修造選手に敗退してしまったもののダブルスにおいて雪辱。
後にシングルスでは高校時の大牟田杯 準決勝にて雪辱。
(その後 松岡修造選手が海外での大会にシフトした為
公式戦では3戦のみ対戦であった。)
大会終了後は強豪高校、数校の先生が家までスカウトに。
そのなかから九州にある柳川高校をチョイスさせていただき寮生活を送ることに。
(当時柳川高校はインターハイ14連覇するなど
日本一のテニス部といわれていた)
高校での戦績はインターハイ優勝(団体)、
全日本Jr. ベスト4(ダブルス)であった。
高校では目立った活躍もできなかったこともあり
当時 法律に興味をもっていたこともあり法律家を目指そうと
赤本を購入し受験する大学の傾向と対策を徹底研究。
希望通り 法政大学 法学部 法律学科に合格する。
大学ではテニスをしながら司法試験に必要な単位を取得し
卒業後に資格取得を目指すという人生プランを思い描いていた。
しかし大学に入ってテニス部の先輩から
「語学(英語、フランス語)以外の授業は
出てはいけない部活動優先である」
と告げられ唖然とする。
どうせ一日の大半をテニスコートで過ごさなければならないのなら
もう一度 テニスを頑張ってみようと
一年生の秋から気持ちを入れ替え
テニスの練習に打ち込む事にした。
(当時、毎日 閉店まで居たパチンコ店
こんな事をやって時間を浪費している場合でないと
パチンコをやらないと決意しそれ以後、
今日に至るまで一度もやっていない)
その成果は2年生夏に結果として現れた。
今まではいつも本選1~2回戦で負けていたのだが
その大会においてはシングルスで決勝まで進み、
決勝戦で土橋 登志久選手
(当時、デビスカップ日本代表 プロ、アマ合わせて
日本1位、2位を争う選手)に
3-6、7-5、7-6、6-7、4-6と敗れはしたのだが、
勝利まであと一歩の激戦が出来た事が自信となり
その後も安定した成績を収める事が出来るようになった。
勝ったり負けたりであったが、
後半連勝できたのは彼が怪我の苦しんでいた為である)
全日本選手権大会 シングルス10年連続出場。
北は北海道~南は沖縄まで日本国内のトーナメントに参戦。
また海外では アメリカ、トルコ、シンガポール、インドネシア、台湾
などでおこなわれたサテライト・トーナメントに参戦。
(このトーナメントは基本的に同一国で4週に渡って開催され、
その4週の大会で好成績を収めた上位選手のみが5週目に開かれる大会に出場、
そしてこの5週目のトーナメントで勝ち上がることによって国際ポイントである
ATPポイント獲得に繋がるというシステムであった)
しかし選手後半は相手の選手というより怪我との戦いでもあった。
取得ポイントでランキングが決まり
ランキングによって出場できる試合が変わってくる
こともあり毎月発表されるランキング、
選手はとても気になるものである。
ポイントは1年間有効であり その次の年に同じ大会で同じ成績なら
また同じポイントを獲得できるのだが
怪我等で出場できなかった場合は丸々そのポイントを失ってしまう為、
怪我をしていても痛みをおして大会に出場することが殆どであった。
そして大会は毎週どこかでおこなわれている。
]病院の診察では プレーはNGとドクターストップ状態。
怪我はいつ治るのか?
練習もストップしなければいけないのか?
練習を休む場合はどれくらいなのか?
完治させずに試合にでるとどうなるのか?
どんな治療を受ければ早く治るのか?
監督、コーチは 怪我しても休むな、やれ。
病院、トレーナーからは休めと正反対の指示がでては
選手としてはどうするのが最もよいのか?
判断しずらい状況でもあった。
そして 今では当たり前になっているが、
私の現役時代に大きな大会ですら
オフィシャルトレーナーはいなかった。
葛藤のなかでの選手後半の競技生活を過ごした事もあって
怪我を早く治せる治療家になりたい、
選手の複雑な気持ちも理解できる治療家になりたい。
選手、コーチ、トレーナーそれぞれの立場から
みれる人になりたいと強く思うようになった。
そこで私は帝京グループが経営する専門学校に
夜学で通い受験資格を取り
柔道整復師の国家資格を取得する。
そして整形外科、整骨院での修行。
日本のトップJr.の海外派遣の引率
(ボリビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ等)。
(世界のトップ選手の集まる国際大会)で
オフィシャルトレーナーをおこないながら
2001年6月に 南林間に接骨院を開業する。
開業後、日曜日、祝祭日を普通に休診日にしていたのだが
ゴールデンウィーク明けに患者さんから
「そんなに長く休まれると身体が痛いので困る」など
複数の患者さんから叱られ
「そうだ 痛みには休みがないのだ」
極力 院を開けようと日曜日、祝祭日も
診療するスタイルに変更する事を考えた。
開業して数年後 地域一番の治療院だということで
ケーブルテレビより取材があり。
続けて
業界紙ではメジャーな「やわらセラピー」から
「怪我を治せる治療家」として取材を申し込まれ
その後
全国区レベルで有名治療院
2冊の本に載った。
努力し頑張ってきたことが少しづつではあるが
評価されるようにもなってきた。
口は達者でなく いつも患者さんが自分の言ってる事を
理解して頂けているのか心配である。
不器用で、努力し精一杯やる事しかできないが
当院を頼って来て頂いたのなら
極力 その方の希望を叶えたいと思っている。
それは患者さんであろうとスタッフであろうともである。
小学校~中学校では勉強もスポーツも学年でトップであった。
学校の勉強で難しいと思ったことがなく、
教科書を読めばわかると黒板に書かれる事を
ノートに転記しなかったり、
あまり勉強してなさそうにもかかわらず成績がよいので
先生方にとって扱いずらい生徒であったのではなかろうか?
スポーツも得意であったが、テニスの選手の中では
運動能力は並以下であったと思う。
175cm身長も大きくなく スピードとパワーで格段に劣っていた。
既に上に身体を伸ばしていく事ができない為、
テニスの練習と同じくらい
トレーニングを頑張って筋力をつけた。
また持って生まれたものは劣るため
対戦相手を研究し作戦面を工夫し考えた。
後は苦しくなった時の頑張り根性でカバーしていった。
勉強においても 外に出て行けば自分より
はるかに頭のいい人が多い事に気づかされ
ここでは体力にものいわせた勉強方法が効果を発揮した。
何十時間も机に向かっていても集中力が落ちず、日本であれば
どこの大学を受けても合格できる自信があった。
(過去問をやって合格点が取れていた)
現役テニス選手時代 海外遠征にもでたが、
そこでATPポイントを稼いでくることは当然であろうが、
それより一人で知らない土地に行き言葉も通じないところで
寝泊りできるところや大会が開催されるところを探すところからはじめ
(当時はインターネットはない時代であった)
戦ってこられた事が、自分一人ならどんな状況に
なってもなんとでもなるという
自信になってその後の人生に役だったように思う。
また現役引退後にJr.選手の海外派遣の引率もおこなったが、
ここでは自分の問題より引率したJr.選手の事が大切であり、
言葉も通じない知らない土地に
治安のよくないとされている国もありそこで問題もおこさず
サポートできたことは
その後の人生で大きな自信となった。
開業後も全日本テニス選手権大会や、ジャパンオープンで
オフィシャルトレーナーを務めていたが、
ジャポンオープンでは 当時、世界NO.1テニス選手であった
ロジャー・フェデラー選手のサポートができ、
更にお礼にサインを頂けた事は、
今でも私の宝物になっている。
この治療業界に足を踏み入れた時は、
開業して暫くすれば仕事に落ち着いて向き合えると思っていたが、
丸15年 もうすぐ16年目に突入するが、未だ多忙である。
文部省が福岡の裁判で負けた事も
この落ち着かない原因の一つとなっていると思われるが、
地域の皆様の健康をサポートする意味において
当院の役割は大切だと自負してる。
当院の存在意義が失われるまで
まだまだ存在し続けなければならないと思っている。
過労で体調を崩し 入院したことが以前数回あったが、
今後も体調管理に注意し、
バランスよく仕事と向き合っていかねばと思っている。
プライベートな時間の使い方としては、治療や経営等の勉強
(本、DVDで学んだりセミナー参加)、
テニスコーチ、トレーニング、テニス練習などである。
好きな芸能人は誰か?と聞かれれば、
テレビに出てくる方は綺麗な方が多いが、
真っ先に上げられるのは石田ゆり子さんで
20歳と時からずっと変わらずファンである。
なぜ そんなにストイックなのですか?と
よく聞かれるが、理由は色々で
・ いざという時の追い込み力を上げておきたい。
・ 目標達成することで自己概念を上げ続けたい。
・ 健康に携わる従事者としての有言実行。
・自分を嫌いになりたくない。
・心身ともに健康でありたい。
等々である。
好きな事としてプロ野球、将棋、音楽をがんがん鳴らして聴く事などである。
嫌いな事としては健康を害する事 (煙草の煙は好きでない)、
努力しない事などである。
人生 自分の思ったようにはなかなかいかないし
努力しても結果が出ないことの方が多く
投げ出したい時も有るのだが
ぐっと歯をくいしばり 自分に負けてしまわないよう
継続していかなければならないと思う今日この頃である。
この年になっても一度も結婚した事がない為
ホモセクシャルなのではと疑われることもあるかもしれないが
決してそんな事はなく いたって普通にヘテロセクシャルである。
将来への不安からなのか?仕事や勉強ばかりしていたら
あっという間に月日が経ってしまった。
子供は大好きである。
いつかは結婚して家族を大切にし 奥様になっていただいた方とは
いつまでも変わらず仲良く過ごしたいと思っている。
2016年5月15日 現在